みなさま、こんにちは✨
お読みいただき、ありがとうございます✨
みなさま、歴史はお好きでしょうか?
KUMAKOは織田信長だけに興味を示し、
戦国時代は得意でした♪
(今では記憶が退化しておりますが…笑)
織田信長は、世に天下布武を掲げ、
天下統一を目前に本能寺の変で
明智光秀に謀反を起こされ、
世を去りました…
天下布武は、
「争いのない世をつくる」ために
掲げた理想であり、目標でした!
もし天下統一を果たしていたら、
もっと早く争いのない時代を
迎えていたことでしょう。
と思ってしまうのですが、
起こったことは仕方ありませんね!
ここで重要なことは、
「なぜそうなったのか?」
「どうして謀反を起こされたのか?」
という原因です!
その原因は、驚くことに
すべて運勢に出ているのです!!
歴史で重要な時代を
3つの篇にわけて鑑定し、
・人格(人生の中心的運勢)
・総格(全体運を司る運勢)
・外格(人間関係など)
上の3つの項目は
男性にとって重要な鑑定項目です!
(掲載順:あ行〜)
シンプルではございますが、
ぜひお読みいただきたいです♪
戦国時代 運勢表
生誕-死没 | 年齢 | 人物名 | 内容 | 画数からみる全体運 |
---|---|---|---|---|
不明-1582 | ? | 明智光秀 | 斎藤道三、足利義景に仕え、足利義昭と共に織田信長に従う。 本能寺の変で謀反を起こすが、山崎の戦いに敗れ、敗走中に士民に殺害される。 | 総格33(大吉)は、自信と野心は人一倍あり、天下に名を成すほどの強い信念で、難問を突破し大業を成就する。 但し、外格19(大大凶)の才知と能力を発揮しつつも、とかく障害に遭う運勢である。 |
1545-1573 | 28 | 浅井長政 | 織田信長の妹(お市)を娶り手を結んだが、姉川の戦いで信長に反旗を翻し、朝倉勢と共に敗戦。 小谷城は落城し、自害した。お市の方と娘三人は救出。 | 総格32(大吉)は、自分の力ではなく目上の引き立てにより出世する。 但し、外格(大大凶)20の病弱・孤独・短命など、災厄な災いに遭う運勢である。 |
1533-1573 | 40 | 朝倉義景 | 浅井長政と手を組み織田信長と対抗したが、姉川の戦いに敗れた。 その後も交戦したが、信長勢の強い勢力に及ばず、大野で自害した。 | 総格47(大大吉)は、名声・財力に恵まれ幸せな人生となる。 但し、外格28(凶)の波乱多く傷害・災厄などに見舞われる運勢である。 |
1547-1611 | 64 | 浅野長政 | はじめ織田信長に仕え、のち豊臣秀吉に属す。豊臣御奉公の筆頭として活躍。 徳川家康に嫌疑をかけられ隠居。関ヶ原の戦いで家康率いる東軍に属した。 | 総格39(大吉)は、財力・権力・徳望に恵まれる長命運。 外格に、24(大大吉)の目上の引き立てられ、地位・名声共に手に入れるが、20(大大凶)の努力が伴わずツキのない人生となる為、天と地の運勢である。 |
1537-1597 | 60 | 足利義昭 | 織田信長に擁されて、15代将軍の座につく。 その後、反旗を翻して浅井・朝倉と信長包囲網を形成したが、信長に室町幕府を滅ぼされ、諸国を流浪した。 | 総格36(大凶)は、動けば波乱を巻き起こし、浮沈多く安定せず、親分肌だが向こうみずで、 人格・外格に20(大大凶)があり、病弱・孤独・短命の災厄の運勢である。 |
1458-1541 | 83 | 尼子経久 | 守護代となるも寺社本所領や段銭を横領し、室町幕府から追放。 その後、回復し中国地方に版図を拡大し全盛期を築く。奇襲攻撃で城を奪う謀略家だった。 | 内格は強い運で、忍耐力のあり、粘り強く執着心も人一倍で難問突破。 但し、12(大凶)の挫折も多く中年までは苦労するが、確実に地位・名誉を手に入れる運勢である。 |
1514-1560 | 46 | 尼子晴久 | 毛利元就を攻めるが大敗。その後、攻め込んできた大内義隆を撃破し、勢力回復。 版図を拡大したが、一族らを滅ぼして衰勢を招いた。 | 総格23(大吉)は、権力・名声・財産共について回り、内運の強さもある。 但し。外格20(大大凶)のコツコツ努力するが力が伴わず、ツキのない人生となりやすい運勢である。 |
1535-1568 | 52 | 荒木村重 | 池田勝正・織田信長と仕える。足利義昭京都追放、石山本願寺攻めの主力として活躍。 信長に背き地位を失うが、秀吉に拾われ、利休高弟七人の茶人となる。 | 総格32(大吉)と内運の強さで、一時は逆境でもチャンスを掴み、年上に引き立てられる。 但し、外格と家庭運20(大大凶)に災厄運があり、人間関係や家庭以外の趣味で、才能を発揮する運勢である。 |
1561-1602 | 41 | 井伊直政 | 父が殺され各地を放浪。徳川家康に見出され小姓となり、やがて有力武将にのぼりつめる。 関ヶ原の戦いでは口火を切る。徳川四天王“赤鬼”として恐れられる。 | 総格26(凶)は、強い意志力と活動力で波乱多い生活を送るが、 外格16(大吉)はツキがあり、多くの人を魅了し人気を集め、トップの地位を占め、晩年ほど良い運勢である。 |
1564-1613 | 49 | 池田輝政 | 織田信長・荒木村重・豊臣秀吉に仕え、小牧・長久手の戦いや九州攻めなどに従軍。 秀吉没後、関ヶ原の戦いでは徳川軍に属し、姫路城城主となった。 | 総格35(吉)は、才知に富み、学問・技芸に優れ、この方面で実力を発揮すると良い。 外格15(大大吉)は、目上に引き立てられ金銭・地位・名声共に手に入れる運勢である。 |
1560-1600 | 40 | 石田三成 | 15歳頃に豊臣秀吉の小姓・側近となる。武術より兵站に優れていた。 関ヶ原の戦いでは、徳川勢と戦ったが、小早川秀秋らの裏切りによで敗戦し、京都で処刑。 | 総格20(大大凶)は、コツコツ努力するが力が伴わずツキのない運である。 天才的才知あれど、外格19(大大凶)の障害多く、とかく途中で終わりやすい運勢である。 |
1519-1560 | 41 | 今川義元 | 家督争いを制し、義元と名乗り継承。東海地方第一勢力となり、大軍を率いて尾張へ出陣。 桶狭間の戦いで織田信長の奇襲に遭い、討死した。 | 総格24(大大吉)は、財運強く才知に優れ、目上に引き立てられ、金銭・地位・名声共に手に入る。 但し、外運20(大大凶)の災厄の絶えない災いに見舞われ、ツキのない運勢である。 |
1530-1578 | 48 | 上杉謙信 | 14歳で栃尾城主、19歳で春日山城主となる。5回に渡り、武田信玄と対峙するが、勝敗決せず。 この間、関東管領となるが、関東出陣直前に病没した。 | 総格36(大凶)は、動けば波乱を巻き起こし、浮沈多く安定せず、親分肌で向こうみず。 外格16(大吉)はツキがあり、多くの人を魅了し人気を集め、トップの地位を占め、晩年ほど良い運勢である。 |
1572-1655 | 83 | 宇喜多秀家 | 父の死後、秀吉に託され、養女豪姫を妻にし一門衆の扱いを受ける。24歳で権中納言に昇進。秀吉の五代老の一人。関ヶ原の戦いで敗北し、八丈島に流刑。 | 総格41(大吉)は、技芸・実力どの方面でも大成し、実力第一人者となる。人格13(大吉)は能動的でエネルギッシュな活動家。 但し、外格28(凶)の波乱・災厄・遭難の多い人生になりやすい運勢である。 |
1477-1528 | 51 | 大内義興 | 長門・安芸など六国の守護として勢力を振るい、足利吉稙を報じて上洛。 反対勢力を打ち破り復職。細川氏に代わり10年間幕府を司り、対明貿易権を独占した。 | 総格35(吉)は、采地に富み、技芸・学問に優れ、実力を発揮する。 外格18(吉)は強い信念で難問を突破し、大業を成就し、発展する運勢である。 |
1432-1486 | 54 | 太田道灌 | 上杉定正の家宰。江戸城を築城して居城。山内上杉家の内紛を鎮圧するも、逆に巻き込まれ、主君定正に謀殺された。軍法師範と称され学問和歌にも優れた。 | 総格47(大大吉)は、名声・財力・天恵があり、人格21(大吉)の地位・名誉を手に入れる。 但し、外格26(凶)は波乱万丈であり、裏30(半凶)の一進一退、山あり谷あり浮き沈みが多い。 |
1559-1600 | 41 | 大谷吉継 | 豊臣秀吉の小姓となり、賤ヶ岳の戦いで活躍。朝鮮出兵で兵站を発揮し、秀吉を唸らせた。 関ヶ原の戦いでは不利と知りつつも、友詛を重んじ西軍に加勢し、自害。 | 総格36(大凶)は、動けば波乱を巻き起こし、浮沈多く安定せず、親分肌で向こうみず。 外格23(大吉)は出世・名声・財産共について回るが、裏27(凶) の知力・努力・名声を得るが非難や不和を生じやすい運勢である。 |
1530-1587 | 57 | 大友宗麟 | 海外貿易による経済力と巧みな外交で版図拡大、一時は九州六国に君臨。 しかし耳川の戦いで大敗。豊臣秀吉傘下の一大名に甘んじ衰退。キリシタン大名。 | 総格38(吉)は、学問・芸能など文化面の仕事で成功。 但し、野望を捨て分を守ること。外格26(凶)の波乱多く、裏30(凶)一進一退、山あり谷あり浮き沈み多い運勢である。 |
1558-1630 | 72 | 織田信雄 | 織田信長の次男、本能寺の変後、家康と結び秀吉と戦うが講話を結ぶ。 その後、関ヶ原の戦い・大坂の陣でも家康につき、戦後に大和国に五万石を与えられた。 | 総格44(大凶)は、災厄多く孤独の人生を送る。前半不運だと後半は良い。 乗るか反るかの勝負に出るが、外格30(半凶)の一進一退、山あり谷あり浮き沈みが多い運勢である。 |
1534-1582 | 48 | 織田信長 | 尾張統一、桶狭間の戦いで今川義元を破り、美濃齋藤氏を滅ぼす。足利吉本と上洛・追放、室町幕府を滅ぼす。 天下統一を目前に、本能寺の変で光秀の謀反を自害。 | 総格40(凶)は、知力・胆力が備わり大発展するが不慮なことが起こる。 外格26(凶)の波乱運、裏30(半凶)の一進一退、山あり谷あり浮き沈みの多い運勢である。 |
1556-1615 | 59 | 片桐且元 | 豊臣秀吉に仕え、賤ヶ岳の戦い・太閤検地・朝鮮出兵で活躍。秀吉死後、秀頼の後見人となるが不和を生じ、大坂夏の陣では家康に属す。戦後、四万石領有。 | 総格32(大吉)は、権力・名声・財産共について回るが、驕り高ぶることは禁物。 人格15(大大吉)は目上に引き立てられ、外格8(吉)の忍耐力と粘り強さで難問突破する運勢である。 |
1562-1611 | 49 | 加藤清正 | 豊臣秀吉の縁戚で小姓。本能寺の変で山崎の戦いに参加。賤ヶ岳の戦い・九州攻めで活躍。 関ヶ原の戦いでは九州で西軍の立花宗茂と戦う。築城の名人。 | 人格33(大吉)は、天下に名を成す大業を成し遂げ、学問・芸能など文化面で成功する。 但し、総格43(大凶)の外面派手好きだが、内面火の車になりやすい運勢である。 |
1563-1631 | 68 | 加藤嘉明 | 豊臣秀吉に仕え、九州攻め・小田原攻め・文禄の役・慶長の役で水軍の将として功績がある。 関ヶ原の戦いでは徳川家康に加勢、戦後さらに活躍し四十万石。 | 加藤清正同様、天下に名を成す大業を成し遂げる力があり、外運に恵まれている。 但し、総格46(半凶)の一か八かの大発展か大災厄かに二分する運勢である。 |
1542-1608 | 66 | 金森長近 | 織田信秀・信長に仕える。越前一向一揆戦で戦功を重ね、越前国大野郡に所領。 秀吉の名で飛騨国平定。関ヶ原の戦いでは徳川家康に加勢、初代高山藩主。 | 総格39(大吉)は、財力・権力・徳望に恵まれ、順調に成功・長命。 人格20(大大凶)と外格19(大大凶)の精神的苦労多く、努力が報われずツキない運勢である。 |
1554-1613 | 59 | 可児才蔵 | 斎藤竜興・柴田勝家・明智光秀・前田利家らに仕えた。 関ヶ原の戦いでは福島正則の先鋒隊長として敵兵の首を17も取り大活躍。「笹の才蔵」と称された。 | 総格37(大吉)は、知力・胆力共に優れ、名声・財力に恵まれる。 その他の運も強く、ツキのある運勢である。 |
1556-1595 | 39 | 蒲生氏郷 | 織田信長・豊臣秀吉に仕え、数々の戦いに参戦し、小牧・長久手の戦いの武功で伊勢松賀島城主となる。 その後も戦功をあげ、会津中心とした十二郡四二万石。 | 総格42(凶)は、多芸多才で何でもこなすが、1つの事に専念し地道に進むことが必要。 外格33(大吉)と37(大吉)の天下に名を成し、知力・胆力共に優れ、信用・名声・財力に恵まれる運勢である。 |
1561-1625 | 64 | 吉川広家 | 毛利氏の武将として各地を転戦し、兄の病死により家督を継ぎ居城。 関ヶ原の戦いで三成の西軍に属すが、家康と通じ毛利の参戦を阻止。戦後、周防岩国城主。 | 人格18(吉)は、強い信念で難問を突破そ、大業を成就する発展成功運。 外格16(大吉)はツキが多く人気があり、トップの地位を占め晩年ほど良い運勢である。 |
1563-1609 | 46 | 京極高次 | 織田信長への人質となるも信長に仕える。本能寺の変で光秀に属したが、姉が秀吉の側室となり秀吉に仕える。 関ヶ原の戦いで家康に属し、八万五千石城主。 | 総格37(大吉)は、知力・胆力共に優れ、名声・財力に恵まれる。 人格23(大吉)は出世運あり、外格31(大大吉)も石強く必ず成功する運あり。家庭的・社会的に恵まれる運勢である。 |
1542-1600 | 58 | 九鬼嘉隆 | 伊勢国司北畠の配下であったが、のちに信長に属す。志摩水軍を率いて戦功し、鉄鋼船六隻を率いて毛利水軍を撃破。 関ヶ原の戦いがで西軍に属し敗退自刃。 | 総格48(吉)は、才知・徳望・名声・財力を得る。 但し、外格26(凶)と30(半凶)は強い意思力と活動力だが、波乱多く浮き沈みの激しい人生を送る運勢である。 |
1546-1604 | 58 | 黒田官兵衛 | 織田信長の才能を評価し、主君を説得し臣従を務めた。その後、秀吉の軍師として天下統一期に外交調略面で活躍。 関ヶ原の戦いで家康側に加勢。出家して如水。 | 総格48(吉)は、才知・徳望・名声・財力を得る。 軍師として才能を開花し、内運外運共に運が強い運勢である。 |
1568-1623 | 55 | 黒田長政 | 幼少時に信長の人質として秀吉の長浜城へ。初陣は毛利攻めで賤ヶ岳の戦いで活躍。 関ヶ原の戦いで東軍勝利の力となり、武功をあげ初代藩主となった。 | 総格33(大吉)は、天下に名を成す実力を兼ね備え、人格13(大吉)の学問・技芸・人望に優れ、目上の引き立てがある。 但し、外格20(大大凶)の病弱・短命・孤独の災厄多く、ツキのない運勢である。 |
1560-1615 | 55 | 後藤又兵衛 | 黒田官兵衛・長政父子に仕え、秀吉の朝鮮出兵・関ヶ原の戦いで活躍後、不和になり流浪。 豊臣秀頼に招かれ大阪城の大将として活躍、夏の陣で戦死。 | 総格45(大吉)は、どんな荒波も乗り切り目標達成する成功運であり、人格23(大吉)の出世運と、外格32(大吉)の目上の引き立てがある。 但し、順調に行き過ぎる為、決して自惚れ |
不明-1600 | ? | 小西行長 | 宇喜田直家・豊臣秀吉に仕える。島津攻略・肥後一揆鎮圧の功により、肥後宇士城主となり活躍。 関ヶ原の戦いで西軍に参加し敗北・処刑。キリシタン大名。 | 総格23(大吉)は、権力・名声・財産共について回る出世運。 但し、人格12(大凶)と外格20(大大凶)は、挫折多く、努力が伴わず病弱・短命・孤独のツキのない運勢である。 |
1533-1597 | 64 | 小早川隆景 | 竹原・沼田小早川家を継ぎ、兄と共に「毛利両川」と称され、毛利氏発展に尽くす。 水軍を味方に戦功をあげる。中国攻めの秀吉と和議を結び、豊臣五代老となる。 | 総格41(大吉)は、名実ともに備わる健全な成功運であり、技芸・実業どの方面でも大成し、実力第一人者となる。 外格21(大吉)も地位・名声を手に入れる実力を持ち、男性が持つには良い運勢である。 |
1582-1602 | 20 | 小早川秀秋 | 丹波亀山城主・筑前名島城主・備前岡山城主。秀吉の甥にあたり、秀吉の親族として豊臣家では重きをなし、小早川隆景と縁組。 関ヶ原の戦いで東軍に寝返り、豊臣家衰退を招く。 | 総格28(凶)は、活動力が強いが波乱の多い人生となりやすく、孤独・苦労がつきまとう。特に親族の縁が薄く、傷害・災厄・遭難に見舞われる。 人格10(大大凶)と外格19(大大凶)の孤独・短命・病気・傷害が多く、とかく途中で終わりやすい運勢である。 |
1579-1647 | 68 | 小堀遠州 | 豊臣秀吉・徳川家康に従う。作事奉公をつとめ、二条城・仙洞御所など建築・造園に際を発揮。 茶道を吉田織部に学び、遠州流茶道の祖となる。三代茶人の一人。 | 総格37(大吉)は、知力・胆力共に優れ、信用・名声・財力に恵まれ、外運31(大大吉)の全体的に強い運で発展・成功する。 但し、外格9(大大凶)の病弱・短命・孤独なれど、芸能・芸術関係に優れた特性があり、努力を継続すれば花開く運勢である。 |
1494-1556 | 62 | 斎藤道三 | 総格57(半吉)は、厳しさに名声・財産を獲得するも災厄に遭うが、必ず立ち直る。但し、士気を失わないことが肝心。 人格37(大吉)は万事を排し事を成すが反面孤独。外格26(凶)の動けば波乱が起こる運勢である。 |
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1548-1606 | 58 | 榊原康政 | 三河の譜代家臣で13歳から徳川家康に属し近親となる。 三河一向一揆・姉川の戦い・三方原の戦い・長篠設楽の戦いで指揮。 小牧長久手の戦いで秀吉と対抗。のち秀吉に仕えるが失策と咎められて切腹した。 | 人格21(大吉)は、中年までは苦労するが一歩一歩確実に地位・名声を手に入れる。 但し、総格43(凶)の表面は派手好みで努力するも内面伴わず火の車となる運勢である。 |
1536-1588 | 52 | 佐々成政 | 織田信長の小姓として仕え、朝倉義景攻め・長篠したらの戦いで指揮。 小牧長久手の戦いで戦死。信玄二十四将の一人として称される武将だった。 | 総格29(大吉)は、知力・財力・権力を手に入れるも、物足りないと不満でやりすぎ注意の為、自己反省が必要。 人格14(凶)の孤独相と、外格19(大大凶)天才的才能を発揮するも、障害多く金銭・家庭に縁の薄い運勢である。 |
1537-1575 | 38 | 真田信綱 | 武田信玄に仕え川島の戦いで戦功をあげ、三方原の戦いで奮戦。家督を継ぐが長篠設楽腹の戦いで戦死。信玄二十四将の一人として称される武将 | 総格38(吉)は、学問・芸能など文化面の仕事で成功。 但し、人格14(凶)の孤独相と、外格28(凶)の親族の縁が薄く離別が多い災厄な事態に見舞われる運勢である。 |
1566-1658 | 92 | 真田信之 | 第一次上田合戦の巧みな戦略で徳川軍を翻弄し勝利に貢献。 関ヶ原の戦いで沼田城主だったが、親族と決別し家康に忠節を尽くす。政治手腕で基礎を固めた名君。 | 総格28(凶)は、活動力強いが波乱多く孤独や苦労がつきまとい、親族との縁が薄く離別する。 人格14(凶)の孤独相あれど、外格24(大大吉)の目上に引き立てられ、金銭・地位点名声共に手に入る運勢である。 |
1543-1575 | 32 | 真田昌輝 | 武田信玄の小姓として「百足衆」に抜擢。騎馬五十騎を預かる将として数々の戦歴を戦い活躍。 長篠設楽原の戦いで奮闘したが、兄信綱と共に戦死した。 | 総格38(吉)は、文化面の仕事で成功。人格13(大吉)は才知に溢れ活動し、目上の引き立てに合う。 但し、外格28(凶)の妻子や親族の縁が薄く離別があり、障害・愛役などに見舞われる運勢である。 |
1547-1611 | 64 | 真田昌幸 | 武田信玄の金習。長篠設楽腹の戦いで両兄が戦死し家督を継ぐ。 卓越した先見力で織田・上杉・北条・豊臣と次々主君を変え、関ヶ原の戦いでは西軍東軍に分かれ存続維持。 | 全体的に強運の持ち主。総格31(大大吉)は、才あり意志も強く、常にトップに立ち多くの人から尊敬され、家庭的にも社会的地位にも恵まれる。 人格13(大吉)と外運23(大吉)も人気があり、目上の引き立てに合う出世の運勢である。 |
1513-1574 | 61 | 真田幸隆 | 武田信玄に臣従して信州先方衆として活躍し、宿敵村上義清を戸石城で破り本領の真田郷を回復。小石城で病死。計略に長け「攻めの弾正」の異名をとった。 | 総格40(凶)は、知力・胆力が備わり大発展するが、不慮の運命あり。 人格13(大吉)と外運23(大吉)も人気があり、目上の引き立てに合う出世の運勢である。 |
1567-1615 | 48 | 真田信繁 | 俗称は幸村。上杉景勝・豊臣秀吉に仕えた。関ヶ原で西軍に属し、戦後九度山に配流。 冬の陣・夏の陣でも勇戦。奮戦ぶりは「真田日本一の兵」を称された。 | 総格41(大吉)は、名実共に備わり、どの方面でも大成し、実力第一人者となる。 但し、人格14(凶)は金銭と家庭に縁薄く孤独相であり、外格27(凶)の名声得るも非難や不破が生じやすい運勢である。 |
1522-1583 | 61 | 柴田勝家 | 織田信秀に仕え、信長と対立。その後、信長に忠誠を誓い許しを乞う。 浅井朝倉攻め・長篠設楽原の戦いで活躍。賤ヶ岳の戦いで秀吉に敗北。妻お市と共に自害。 | 総格36(大凶)は、動けば波乱多く、人格17(吉)の強い意志と活動力が特徴だが、他人と衝突しやすくプライドが高く災厄になりやすい。 外格19(大大凶)の天才的才能あれど、とかく途中で終わりやすく障害の多い運勢である。 |
不明 | ? | 島左近 | 石田三成から士官の要請により家臣となる。関ヶ原の戦いで前衛の指揮をとり奮戦。 だが、黒田長政の鉄砲隊に横合から銃撃され戦死したとされる。 | 総格26(凶)は、強い意志と活動力で波乱多い英雄型となる。 人格15(大大吉)の目上に引き立てられ金銭・地位・名声共に手に入るが、反面19(大大凶)の障害多く途中で終わりやすい運勢である。 |
1535-1619 | 84 | 島津義弘 | 大友宗麟・竜造寺孝信を滅ぼし、九州全土を席巻きする勢いであったが、秀吉の九州攻めで降伏。 豊臣政権で活躍。関ヶ原の戦いで西軍に加担し、東軍の追撃振り切り帰還。 | 総格38(吉)は、学問・芸能など文化面の仕事が向いている。但し、権力的な野心を捨てることが肝心。 人格23(大吉)と外格15(大大吉)は、共に出世し、目上の引き立て・金銭・地位・名声を手に入れるが、反面19(大大凶)の障害多く途中で終わりやすい運勢である。 |
1537-1582 | 45 | 清水宗治 | 備中清水城てん高松城城主。毛利家臣として中国地方の平定に従軍し戦功。 秀吉の中国攻めで水攻めされ、籠城・抗戦したが、城兵の助命を条件に自刃した。 | 総格33(大吉)は、地震と野心は人一倍で点火に名を成す実力がある。 但し、人格12(大凶)の志しが途中で途絶え、挫折しやすい運勢である。 |
1522-1591 | 69 | 千利休 | 若くして茶の湯を学び、織田信長の茶頭として地位確立。信長没後、秀吉の茶頭・側近政治に関わる。 侘茶を大成したが、秀吉の怒りを買い切腹を命じられた。 | 総格16(大吉)は、ツキがあり多くの人に人気があり、トップの地位を占める。 外格7(吉)と11(大吉)の独立独歩でプライド高く権力型で他人と和を欠きやすい。人格10(大大凶)の苦労とトラブルが絶えない運勢である。 |
1525-1586 | 61 | 滝川一益 | 織田信長に仕えて数々の武功をあげ、武田勝頼攻めで厩馬城の城主となる。 本能寺の変後、豊臣秀吉と対立したが降伏。小牧長久手の戦いで家康に敗れて出家。 | 総格34(大凶)は、災難が多く家庭的に不遇で、離別や身の破壊が多い。 外格30(半凶)の一進一退、浮き沈み多く不安定になりやすい運勢である。 |
1546-1582 | 36 | 武田勝頼 | 信玄陣没後、家督を継ぐ。北条氏と結び進出したが、織田徳川軍の鉄砲隊の威力に大敗。 多くの宿将を失い衰退。天目山麓の田野へ落ち延び一族と共に自刃。 | 総格41(大大吉)は、名実共に備わる実力があるも、人格17(吉)のプライドの高さが他人と不和を生じやすい。 外格24(大大吉)の才知に恵まれるが、反面28(凶)の災厄などの遭難に見舞われる運勢である。 |
1521-1573 | 52 | 武田信玄 | 21歳で家督を継ぐ。約11年間川中島で上杉謙信と戦う。三方ヶ原で家康撃破。 三河野田城を包囲中の陣中に病状を伏せ、甲斐へ引き返し途中で病死。 | 総格27(凶)は、知力・努力で名声を得るが、非難・不和を生じやすい。 外格13(大吉)の才知溢れ学問・技芸に優れ、17(吉)の強い意志と活動力がプラスされるが、プライドが高く災厄になりやすい運勢である。 |
1494-1574 | 80 | 武田信虎 | 信玄の父。一族の抗争を抑え甲斐国内を統一するも、専制化を危惧した家臣と信玄によって今川義元へ追放。 流転の末、高遠城に身を寄せ同地で没した。 | 総格30(半凶)は、一進一退、山あり谷あり浮沈多いが、人格16(大吉)のツキがありトップの地位を占める親分肌で人気を博す。 但し、20(大大凶)のコツコツ努力するも力が伴わず、病弱・短命・孤独となり災厄な運勢である。 |
1544-1579 | 35 | 竹中半兵衛 | 美濃の斎藤家に仕え、斎藤龍興の稲葉山城をわずか16人で乗っ取る。 信長の命を拒否し、竜興に城を返す。信長・秀吉に仕え姉川参戦。三木城攻めで病没。 | 総格38(吉)は、学問・芸能など文化面の仕事で成功。外格29(大吉)も強い。 但し、人格9(大大凶)の苦労やトラブル多く孤独になりやすい。研究や企画に優れている運勢である。 |
1567-1636 | 69 | 伊達政宗 | 18歳で家督を継ぎ奥州制覇。秀吉に心中を誓い朝鮮出兵出陣。 関ヶ原・大坂の陣で家康軍につき仙台藩基礎強固。「独眼竜」と称され、和歌・茶道に通じる。 | 総格38(吉)は、学問・芸能など文化面の仕事で成功。人格24(大大吉)も目上に引き立てられ恵まれる。 但し、30(半凶)の一進一退、山あり谷あり浮き沈みが激しい運勢である。 |
1539-1599 | 60 | 長宗我部元親 | 初陣で槍の突き方を教わり、戦果をあげ家中の支持を得た。家督相続し、四国全土を支配。 信長に服従せず、秀吉の四国攻めで降伏。三石を没収、一国安堵。 | 総格58(吉)は、浮き沈み多いが必ず立ち直り、晩年ほど良い。外格32(大吉)も一時逆境でもチャンスを掴む事が出来る。 但し、人格26(凶)は波乱多い為、慎重さが必要。 |
1550-1607 | 57 | 津軽為信 | 南部を称するも内紛に常時て津軽氏を名乗る。小田原攻めに参陣し、秀吉より津軽領有りの承認を得て南部氏より独立。 関ヶ原の戦いで東軍に参戦。弘前藩祖。 | 総格45(大吉)は、どんな荒波も乗り切って目的地に到達できる強さあり。 但し、人格26(凶)の波乱の多さと、外格19(大大凶)のとかく途中で終わりやすく障害が尽きない運勢である。 |
1549-1584 | 35 | 筒井順慶 | 2歳で家督を継ぐ。松永久秀に大和筒井城を追われ流寓。久秀没後、信長に従い大和一国の城主。 本能寺の変後、曖昧さを捨て、山崎の戦い後に秀吉に参じた。 | 人格16(大吉)は、ツキがありトップの地位を占める親分気質さで人望に厚い。 但し、外格27(凶)の知力と努力で名声を得るが、中年に挫折する人と中年以降良くなる人の2通りある運勢である。 |
1556-1630 | 74 | 藤堂高虎 | 浅井氏に仕え初陣は姉川の戦いで飾る。生涯主君を7人も変える。紀州粉河の城主。 秀吉没後、関ヶ原の戦いで東軍側に。大坂夏の陣で功績をあげ三十二万石に加増。 | 人格21(大吉)は、中年までは苦労あるが、一歩一歩確実に地位と名誉を手に入れる。 外格29(大吉)も知力・財力・権力全て手中におさめるボス的存在になる運勢である。 |
1542-1616 | 74 | 徳川家康 | 今川の人質、桶狭間の戦いで義元戦死。三方ヶ原で信玄に完敗。 長篠設楽原では完勝。信長没後、秀吉に従う。 | 全体的に運勢が強く、特に総格39(大吉)は財力・権力・徳望に恵まれ、トントン拍子でトップの座につく。 但し、外格26(凶)は家庭的に恵まれず、波瀾万丈の運勢である。 |
1576-1655 | 79 | 戸田氏鉄 | 家康の近習として仕え、関ヶ原の戦いで従軍。家督を継ぎ、近江膳所藩主。 大阪の陣で摂津尼崎五万石へ入封。美濃大垣十万石へ移封。美濃大垣初代藩主。 | 総格25(吉)は、積極的に努力し発展し、外格16(大吉)はツキがあり親分肌気質で人望を集める。 但し、人格9(大大凶)は苦労とロラブル多く孤独になりやすい。研究と企画が優れている運勢である。 |
1568-1595 | 27 | 豊臣秀次 | 養子を繰り返しの地は芝性を名乗り、近江八幡城主四十三万石となる。 秀吉の長男鶴松没後、関白職に就く。秀頼単勝後、不破となり高野山へ追放され切腹。 | 総格37(大吉)は、知力・胆力共に優れ、外格24(大大吉)の目上の引き立てにあい、金銭・地位・名声共に手に入れる。 但し、外格28(凶)の親族の縁薄く離別しやすく、障害・災厄などに見舞われる運勢である。 |
1537-1598 | 61 | 豊臣秀吉 | 幼少は貧困で悲惨な境遇。信長の小者となり頭角を現す。浅井氏が滅び長浜城主。 本能寺の変後、光秀を討ち、信長の後継者として地位確立。天下統一を果たす。 | 総格37(大吉)は、知力・胆力共に優れ、信用・名声・財力共に手に入れる。万難を廃し事を成す独立権威の強さはあるが、孤立しやすい。 人格13(大吉)も活動的で目上の引き立てがあり良い地位に就く。但し、28(凶)は活動的だが波乱の多い運勢である。 |
1539-1600 | 61 | 鳥居元忠 | 家康の近侍。家康の初陣以来、姉川・三方ヶ原・長篠設楽原・小牧長久手の戦いなど数々の戦功をあげ、 武田氏滅亡後、地位確立。関ヶ原では守将として戦死。 | 総格31(大大吉)は、意志強く必ず目標達成する強さがあるが、 外格19(大大凶)の天才的才能発揮するが、病弱・短命・孤独となり、とかく途中で終わり障害の尽きない運勢である。 |
1535-1585 | 50 | 丹波長秀 | 信長に仕え、信長養女を妻に娶る。佐和山城主・若柳一国を与えられ、勝家と並ぶ重臣とされ重用された。 信長の主要合戦を歴任。信長没後、秀吉につき活躍。 | 総格25(吉)は、積極的に努力し強い発展性あるも、他人と和を欠きやすいが、 外格11(大吉)と15(大大吉)の目上に引き立てられ、金銭・地位・名声共に手に入れるほど恵まれる運勢である。 |
1526-1586 | 60 | 蜂須賀小六 | 斎藤道三・織田信賢・信清に従う。秀吉と共に墨俣一夜城の築城で活躍。 播磨竜野城主となる。軍・政・外交の各方向で秀吉を補佐した優秀な武将である。 | 総格46(半凶)は、苦労して築いた地位・財産の急変に見舞われ波乱が多く、大発展か大災厄の二極化となる。 人格15(大大吉)の目上に引き立てられ金銭・地位・名声共に手に入れる運勢である。 |
不明-1600 | ? | 平塚為広 | 秀吉に仕え、小牧長久手・小田原攻めに参加し武功をあげた。 秀吉没後、秀頼に仕え所領をもらう。関ヶ原の戦いでは西軍に加勢。裏切った小早川に奮闘したが討死。 | 総格45(大吉)は、どんな荒波も乗り切って目的地に到達できる強さがあるが、 外格20(大大凶)のコツコツ努力するも力が伴わず、病弱・孤独・短命のツキのない災厄な人生となる運勢である。 |
1561-1624 | 63 | 福島正則 | 秀吉に仕え武勇に優れ、賤ヶ岳の戦いでは一番首をあげ「七本槍」の筆頭。 関ヶ原の戦いで宇喜多軍を破り、戦後芸備に入封。信濃高井野に改易され、生涯を閉じる。 | 総格38(吉)は、学問・芸能など文化面の仕事で成功。人格15(大大吉)の目上に引き立てられ、 金銭・地位・名声共に手に入る。外格23(大吉)は出世運であり、行動力の強い運勢である。 |
1558-1580 | 22 | 別所長治 | 若くして家督を継ぎ信長に仕える。中国毛利攻めの総指揮官は秀吉が任せられ三木城で籠城。 2年余信長に背き城中食糧尽き、城兵の助命を条件に投降・自害。 | 総格32(大吉)は、自分の力ではなく目上の引き立てにより出世する強さがあるが、 外格20(大大凶)のコツコツ努力するも力が伴わず、病弱・孤独・短命のツキのない災厄な人生となる運勢である。 |
1538-1590 | 52 | 北条氏政 | 相甲駿三石同盟の成立と共に、武田信玄の娘を正室に迎え家督を継ぐ。 氏直に家督を譲り後見役となるが、小田原攻めで籠城し、氏照と共に切腹を命じられた。 | 総格28(凶)は、活動力は強いが波乱多く、災厄などの遭難に見舞われる。 外格13(大吉)と17(吉)のプライド高く災厄な反面もあるが、目上の引き立てにより良い地位につく運勢である。 |
1515-1571 | 56 | 北条氏康 | 三代目当主。扇谷上杉氏を破り、義元・信玄と相甲駿三国同盟を結び関東勢力掌握。 領国経営の検地の実施や伝馬制度の施策など基礎強固。政治的手腕長ける。 | 総格31(大大吉)は、文句なしの強さがあり、才あり気立て良し、必ずトップの座につき成功する。 人格15(大大吉)も金銭・地位・名声共に手に入り、目上に引き立てられ人望厚く、晩年程良い運勢である。 |
1456-1519 | 63 | 北条早雲 | 今川家の家臣、内紛を収めるなど功により出世を重ね領地を得て伊豆・相模の有力者を倒し独立。 領民の生活を第一に善政。民進掌握し五代にわたる礎を築く。 | 人格17(吉)は、忍耐力があり強い意志力と活動力があり、 外格21(大吉)の中年までは苦労するが一歩一歩確実に地位・名声を手に入れるトップの運勢である。 |
1544-1611 | 67 | 堀尾吉晴 | 信長・秀吉に従い、近江沢山城主に。小田原攻めで武功をあげ浜松城城主。 秀吉の信任厚く山中老の一人。関ヶ原で東軍につき出雲隠岐二十四万石に加増。 | 人格13(大吉)は、燃えるような才知あふれる活動力があり、目上の引き立てで良い地位につく。 仕事運23(大吉)は権力・名声・財運共に手に入り、出世する運勢である。 |
1548-1610 | 62 | 本多忠勝 | 家康に仕え、三河一向一揆・姉川・小牧長久手の戦いで戦功を収める。 関ヶ原の戦いで家康本体として参戦、外交面でも活躍。「徳川四天王」ほとんど従軍。 | 総格31(大大吉)は、文句なしに全体的に恵まれ、意志強く常にトップに立ち多くの人に尊敬される。 外格17(吉)と21(大吉)はプライドが高く中年までは苦労するが、一歩一歩確実に地位・名声を手に入れる運勢である。 |
1538-1599 | 61 | 前田利家 | 信長の小姓だったが側近を切り放逐。武勲をあげ信長の許しを得て帰参。没後、勝家・秀吉に臣従、加賀百万石の礎を築き、豊臣家の五大老の一人になった。 | 総格31(大大吉)は、文句なしに全体的に恵まれ、意志強く常にトップに立ち多くの人に尊敬される。 仕事運21(大吉)もトップの座につく実力を兼ね備えているが、謙虚さを失いやすい為、コツコツ確実に進むと良い運勢である。 |
1501-1573 | 72 | 村上義清 | 二度武田軍を打ち破るが戸石城落城後劣勢に。武田軍から脱出。 越後の上杉謙信の元に走り、川中島の戦いの導火線の一つになった。その後、謙信の配下で活躍。 | 総格35(吉)は、才に富み、学問・技芸に優れ実力を発揮するが、権力型ではない。 人格16(大吉)もツキがあり人望も厚くトップの座につく運勢である。 |
1553-1625 | 72 | 毛利輝元 | 11歳で家督を継ぐも叔父が実権掌握。毛利税の補佐を受け信長に対抗。 本能寺の変後、秀吉の傘下となり五大老の一人となる。関ヶ原の戦いは西軍、戦後大幅削減。 | 総格30(半凶)は、一進一退・山あり谷あり浮沈が多い。投機が当たれば良いが、多くは失敗。 外格8(吉)は忍耐力がありねは良いが頑固で野心的なところがあるため、柔軟に対応すると良い運勢である。 |
1497-1571 | 74 | 毛利元就 | 初陣の有田城合戦で敵勢を破り、安芸に元就有り!と知らしめた。 27歳で家督を継ぎ、次々と中国地方を治め有力大名に。生涯200回以上の戦に臨んだ。 | 総格27(凶)は、知力・努力で名声を得るが、とかく非難・不和を生じやすい。 人格11(大吉)と外格16(大吉)はトップの地位を、晩年ほど良い運勢である。 |
1546-1605 | 59 | 山内一豊 | 小田伊勢守家を信長に滅ぼされ浪浪の後に信長に仕え従軍。 のち秀吉に仕え長浜城・掛川城主となる。関ヶ原の戦いで東軍につき家康を喜ばせた。土佐二十万石。 | 総格26(凶)は、動けば波乱万丈となり、人格5(大吉)はツキがある福徳・長命である。 外格21(大吉)も中年までは苦労するが、一歩一歩確実に地位・名声を手に入れる運勢である。 |
1545-1578 | 33 | 山中鹿介 | 月山富田城の落城・尼子氏の滅亡で浪人に。京で宗の尼子勝久を擁立し織田家の後ろ盾で転戦。 毛利軍の包囲と信長から見捨てられ降伏し護送中に殺害された。 | 総格22(凶)は、先の見えない不安定さがあり、中年以降の運気が低下する。 外格10(大大凶)と14(凶)は病弱・短命・孤独になりやすくギャンブル気質の運勢である。 |
不明-1561 | ? | 山本勘助 | 信玄に仕官。足軽対象であったが次第に軍師的立場で重用される。 第4回川中島の戦いで上杉謙信に戦法を見破られ、失敗を悟り戦場に赴き壮絶な戦死をする。 | 総格26(凶)は、動けば波乱万丈となるが、人格16(大吉)の人望厚くトップの地位を占める。 但し、10(大大凶)と14(凶)は病弱・短命・孤独になりやすく障害の絶えない運勢である。 |
1529-1584 | 55 | 龍造寺隆信 | 出家していたが還俗し家督を継ぐ。少弐・大友・有馬各らと戦い肥前一国を固め、さらに領国拡大。 しかし島津・有馬氏の連合軍と沖田畷の戦いで戦死した。 | 総格62(大凶)は、病弱・不和・失意・衰退がつきまとう。 人格23(大吉)の出世運は良いが、53(凶)の前半良ければ後半悪く、またその逆もある為、吉凶の出やすい運勢である。 |
約150年間続いた戦国時代
日本における戦国時代とは、
応仁の乱(1467年)〜
大坂夏の陣(1615年)までの
約150年間続いたとされています。
この応仁の乱とは、
1467-1477年の約10年間続いた
京都を中心とする内乱のことです⚔
それまでの京都は足利将軍が統治し、
室町幕府が続いていましたが、
将軍の弟と息子で後継者争いが始まり、
幕府の権力と室町幕府が力を失いました。
大坂夏の陣とは、
江戸幕府を開いた徳川家康率いる東軍が、
豊臣秀頼率いる西軍を壊滅させたことです⚔
150年の戦国時代に終止符を打ち、
平和な江戸時代へと変わるキッカケとなりました!
実は当時の書物は少なく曖昧な部分も多いため、
徐々に歴史の教科書は変わっているようですが、
身分関係なく実力と才覚次第で出世し、
あわよくば天下統一を目指せる
戦国時代は現にありました!
KUMAKO MEMO
日本各地の有力大名が次々に現れ、
下位の者が上位の者を倒す下克上の最中、
明けても暮れても
戦ばかりの時代を生きた人たちは、
波乱万丈な人生を辿る運勢でした。
その中でも、
運勢の強い者は天下に名を成し、
後世に影響を与えていますが、
その反面、世に名を轟かせても、
病弱・短命・孤独・災厄・不遇などが災いし、
若くして人生の幕をとじる者も多くいます…
同じ災難に遭おうと、
強運者は難から逃れることができ、
弱運者は影響を受けて困難な状況に陥っています。
占術を重んじる中国だけではなく、
運勢の吉凶は生死のわかれ道でもあります。
歴史は学べば学ぶほど奥深く、
戦争のない時代に生まれた私たちは
運の強さに感謝すべきですね!
そして、占術家は
どの時代にも必要不可欠な存在だと、
改めて知ることができました✨
さて次回は、新撰組篇ですので、
ぜひお読みいただけますと嬉しいです♪
いつもハッピー&ラッキーでありますように🍀